趙 陶斎 ちょう とうさい
   

仲尼免已謾
予亦浮干海
昏見斗柄廻
方知歳星改
虚舟任所逎
垂釣非有詩
為問乘槎人
滄洲復何在
仲尼 已でに謾を免れる
予も亦た 干海に浮かぶ
(やみ)に 斗柄(=北斗七星の第5・第6・第7星)廻るを見る
方に 歳星改むるを知る
虚舟(=虚心) 任所(=任地)に逎(あつま)
垂釣(=釣りをする)も 詩有らず
為に槎(いかだ)に乗る人に問う
滄洲(=東方の海上にあり、仙人の住むという所) 復た何び在らんや
130.7p×28.7p

正徳3年(1713)生〜天明6年(1786)歿
 長崎の生まれ。名は養。字は仲頤。陶斎は号。別号は息心斎・息心居士・拘杷園・清嘩閣などの号がある。父は清人の趙氏、母は長崎の日本人で、南京の商人超氏が長崎にきて、丸山街の女との間で生れた子といわれる。。
 折しも華僧竺庵が長崎の興福寺にやってきた。そこで禅師は陶齋を佛弟子として養育した。享保12年(1727)竺庵は宇治萬福寺の堂頭となったので、また陶齋をつれて宇治黄檗にきた。28歳まで僧籍にあったが、故あって還俗して諸国を遊歴し、江戸に10余年いて、大阪の深見久兵衛氏の家に移り、また堺に移り、能書家として有名になり、教えを受けるものも多かった。また、枳拘丸(丸薬)を売って生計の一助にしていた。陶斎は山水・篆刻に長じた。また文武の典故にも精通していた。天明6年に74歳で亡くなっり、堺南宗寺本源院に葬られた。陶斎は酒の好きな人であったという。
 書は初め唐僧竺庵に書法を学び、のちに明の文徴明・元の趙孟頻(子昂)の書を学び、晩年には北宋の米元章の書を学んだ。陶斎は古人の書の臨書に努め、生涯の楽しみとし、当時陶斎の書跡を求める者がたくさんいた。
 「陶齋養」の下に、白文の「養印」、朱文の「陶齋」の落款印が押されている。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E9%99%B6%E6%96%8E


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